北野・山本地区をまもり、そだてる会

歴史トーク

北野・山本まちなみフェスタ'99
『まちなみ歴史トーク』

主催:北野・山本地区をまもり、そだてる会
開催日:1999年10月30日
開催場所:異人館倶楽部パート2 パラディアム
開会:13時40分 閉会:15時33分

歴史トークPDFファイル(3MB)
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私は、山本通3丁目の高橋でございます。
日本郵船の寮だった建物には以前ゴールマンというイギリス人が住んでました。
トアホテルは泊まるだけ。食事は朝昼晩、オリエンタルホテルまで食べに行ったと聞いております。
私の家はここ外国倶楽部の南向かいにあって、ここで家具屋をやっております。私が聞いておりましたのは、トアホテルのところがもともと鯉川からの池でした。池をつぶしてトアホテルを建てたと聞いています。それで池の碑があり、昔の農業用水路で、現在もここから横に入る道できて、ここが駐車場になっております。ここがトアホテルの玄関、トアロードから上がって、ホテルがここにある。この両方に格好のよい松が、現在で言えば須磨の離宮道の両側に松の木が植わっていますが、ああいったような形です。それから南側に門がありました。1尺何ぼぐらいの四角な、高さ6尺ぐらいの門柱があって、その間を車が出入りしておりました。ここに泊まってるお客には、ここは食事を出しません、泊まるだけ。それで食事は必ず朝昼晩、トアロードを下りてオリエンタルホテルまで食べに行ったと。そういうことを私、聞いております。
 水害でこのトアホテルの門が土砂で埋まったわけなんです。土砂で埋まったものですから、塀をしまして、今のように東側に出入り口つくったわけです。それで、ゴルフの芝生があって、これも遊び場つくっとったんです。現在のその下へ駐車場になっておりますけれども…。ここに奥野さん。水害の時の水が流れて、足を怪我をして、松葉づえついて。それから、トアホテルの東向かいを買われて、30年前後じゃなかったかと思いますが移ってこられた。当時、奥さんが女医さんで。それと現在このコボリマンションの横手、この道がなくなってるんです。
 それと、それともう1つ道がなくなっとるのは、箙さんがあって、路地があってね、キャサリン邸があるんですよ。以前はこの道回れたんですが、今はこれ塀をしてしまった。
 それから箙さんの洋館がここ、それと私の記憶では隣がオランダ領事。その隣に、領事がずうっと並んでいました。スイス領事、オランダ領事、領事がずうっと並んで、この向かいにインドか何か領事があったんかな。そういうような記憶がしております。
豊田
これで山本通3丁目まで。加藤さん、どうぞ。
加藤
山本通2丁目の加藤でございます。
 私は、もともと神戸の者ではありませんので。私の家内は神戸生まれの神戸育ちで、おじいさんの代から加藤家として続いておるわけですが、私が職人として勉強のために神戸へ来たのは昭和26年の4月でした。転々と渡り歩いているうちに加藤の店に世話になるようになりまして、昭和29年に結婚したんですけども、当時私は数えの23でした。その加藤家に来た時にですね、まず修理ばっかり回ってたわけですが、行く家、行く家が全部カタカナなんですね。どこそこ行けと言われても、カタカナばっかりですから、今聞いた名前もすぐ忘れてしまうと。今、今日こんな皆さんみたいに話をするということを頭に入れてなかったので、十分把握はしてないんですけども、とにかく名簿をですね、昨年書き出してみたら、やっぱり大方100軒ぐらいの名前が出てくるんですね。私が田舎から出てきまして、神戸で生活するようになって、しかも、仕事のお得意さんが全部外国人。アメリカ人もおれば、スイス人もおれば、イギリス人もおれば、インド人もおればということでですね、いろんな国の方とお付き合いをさしていただいた。
 まず、私は歴史とかそういうのはちょっと縁遠い話になりますけども、私が外国人のところで3時のおやつの時間にですね、「休憩してください」とコーヒーを出していただく。「どうでしたか、もう1杯入れましょうか」と片言でおっしゃいました。「いや、もう結構です」と言ったら下げて行ってね、また次のおやつを出してくれるんですね。「いや、私もう要らないですよ」「要らないんだったらはっきり言ってください。あなた結構ですと言ったから持ってきたんです」と。ああ、なるほど。そういう話をよく聞いてたんですけども、なるほどこれははっきりしなきゃいけないなというふうに感じましてね。お互いに職人同士でですね、どこそこ行ったらこうこうだから、こういうふうにしなさいよというようなことでね、いろいろなことがあったわけですが。
 親方に行けと言われて、言葉がどうもわからない。自分たちはわかりませんからね、その外国語は。それで、どうしようかなと思って、とにかく行くだけ行ったらわかるだろうと。女中さんがおりますとこは女中さんがある程度は言ってくれますし、彼らは2年たつと日本語ベラベラなんですね、皆、どこの国の方も。偉い階級の方は日本語しゃべらないんですね、通訳を通じて話をする。でも普通に自分で商売してたりする方は、もう2年もすればバリバリです。3カ月たてば平生の言葉、皆しゃべっておられましたけどね。皆さんもこの神戸にいらして十分にご存知と思いますけども。
 とにかく私のところのお客さんの出入りといえば、中村平事務所というのがありまして、神戸に上がったら、中村平の事務所を尋ねなさいというふうな、不動産関係からいろんな商売をなさってまして、私らの時代は、もうそんな中村平事務所も不動産部だけでしたけども。私の家内のおじいさんがその中村平事務所に勤めておったんですけれども、日本茶の輸出をしてたのがだめになりまして、不動産の方をちょっと管理したらどうかということで、この建築の方にかかわるようになってからですね、おじいさんが独立しまして、現在に至ってるということで、店をおこしてから今年で103年目なんです。
 そういうことで、私が3代目で、いろいろ大工の技術に携わってきたんですが、当時サッスーンアパートというのが、皆さんご存知と思いますが、3階建ての大きい、木造が山本通2丁目に5つですか、中山手ですか、それと北野町の人見さんとこの東横に、あれは3号館ですね、ありまして、そこにいろんな外人の方が住んでたわけですね。周辺も全部私とこは行ってたわけなんですけども、そういうことで、私の出入りするところは全部外人の方ばっかりだったんですが、1人減り、2人減りしましてね。なぜ神戸を、山本通、北野町を退くんですかと言ったら、ラブホテルができて環境が悪いいうことで、芦屋の方に行ったり、塩屋の方に行ったり、ちりぢりばらばらで神戸からだんだん去って行きましたですね。あれは昭和40年から50年くらいの間にですね、ラブホテルがたくさん山本通、あるいは北野町にできるようになりまして、そして、外人の方が少なくなったと同時にですね、北野の異人館をどんどん潰していきましたですね。片っ端から潰してマンションになったんですね。
やはり昔の静かな異人館、閑静な昔の北野町に戻ってほしいと、いつも言っております。
ですから、環境的に、やはり昔の北野・山本通は非常によかったように思いますし、私の甥あたりが時たま神戸へ来るんですけども、もう今は本当にどう言うんですか、商売の町と言いますか、見世物の町と言いますか、そういうふうな感じで、もう神戸に来たくないと。やはり昔の静かな異人館、異人館残すなら残して、もっと異人館らしい閑静な昔の北野町に戻ってほしいと、いつも言っております。異人館はもっともっと大事にすべきだと思いますし、北野町のですね、どう言うんですか、派手な建物は除外したいと思います。まもる会でもね、いろいろ言ってますけれども、そこまで厳しくは言ってないようですので、私も、建築の方に携わっておりますので、甥からそういうことを言われると、非常に辛く痛い思いをするわけでございます。どうか皆さん方の力でですね、この北野町あるいは山本通を、できる限り元のまちに、少しでも近づけながら、観光の方も進めていっていただきたいなと、このように思います。
 長くなりましたが、終わらせていただきます。どうも失礼しました。
豊田
どうもありがとうございました。
下川
先輩方すみません。私、山本通3丁目の下川です。
 今お集まりのなかの一番西端に住んでいます。郵便局がありますね。以前豊田さんの家に私が10代の時ぐらいに年末に仲間が集まりまして、よくすきやきを食べながらワイワイ言ってご迷惑かけた覚えがあるんです。今日初めてご主人にお会いし、奥さんにも会っていますがいろいろの関係でお世話になっております。
 先ほど弓倉先生がちょっと申されてましたけれども、この移民収容所ですけど、実はここ元お墓です。このお墓は追谷に移されました。ここは井坂村と言いまして、ここは牧場です。昔、この筋は、私の家の前の道を移民さんと言ったら失礼ですが、移民さんが通ってまっすぐメリケン波止場へ行っていました。
伊藤博文の時に、現在の光尊寺で第1回兵庫県議会が開かれたと聞いております。
この筋ですけれど、ここで私が聞いた話では、伊藤博文の時にここ光尊寺で第1回兵庫県議会が開かれたと聞いております。それから、ここ神港学園のグラウンドですけれど、これは池でした。親父は現在の地で明治40年に生まれてます。幸いずっと置いていただいとるんですけども。
 それから移民収容所とトアホテルの間、これが今の宅地開発の始まりです。お墓でしたのでできたと思います。これが宅地開発の原形ですね。新しいのは北野小学校のここら辺ですかね。正確に言いますとNHKのあたりです。
 それから、ここですね、ここは松方屋敷。第1回港祭りの時に佐藤国吉さんが寄付を集めないで、わしが全部出すと言って出されたそうです。ここから松方さんもそうですけども、2頭立ての馬車で川崎造船所まで行ってはったと聞いております。以上です。
豊田
どうもありがとうございました。今日は、皆さんそれぞれ各町のご代表の方にお話いただきましたんですが、一応これで終わりまして、その後またいろいろ資料をお持ちになっておりますので、皆さん方ご覧いただいて、何か記憶に残るような話を暫くの間お話いただきたいと思っています。今日は、どうもありがとうございました。
  • ※本編は、「まちなみ歴史トーク」の速記録をもとに、一部要約・編集したものです。
  • ※本編の地図は、昭和12年の地図に、住民の皆さんの記憶をもとに、建物などを落とし込んだもので、所在地、時代関係に若干食い違いがある可能性が考えられますのでご了承ください。
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