北野・山本地区をまもり、そだてる会

歴史トーク

北野・山本まちなみフェスタ'99
『まちなみ歴史トーク』

主催:北野・山本地区をまもり、そだてる会
開催日:1999年10月30日
開催場所:異人館倶楽部パート2 パラディアム
開会:13時40分 閉会:15時33分

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菊地さんとこのまあ前に、昔は人力車の今の言葉で言いますと駐車場ですな、帳場がありました。昔はタクシーが少なかったので、外人さんは主に人力車に揺られて行きよったったです。この坂がきついから、上がる時には、後ろからもう1人の車夫が後押しをして坂を上がったものです。ちょうど小磯さんの門のそばに帳場、いわゆる人力車1台置いて、いつでも車夫が待機しとったわけです。それと今の三角帳場。なぜ三角帳場と言いますと、あそこに帳場があったので三角帳場という名称になったんです。
高橋
人力車の帳場かな。
ステーション、人力車の。
豊田
それでは次の角田さんに入ります。
角田
北野町3丁目の角田でございます。
 私は、今さっき話された人見さんのように小学校時代は温和でなかったので、また自治会の方もご存知の通りのいたずらばっかりで有名なやんちゃ坊主でした。自転車とローラースケートで走り回り、昆虫採集は岡本さんのところ…。
豊田
ここが岡本さんの所、ここがハンター邸、ここが天神さんですから、今ダムになっているこの辺と違いますか。
そこは沼だったでしょう。そこにヤゴやトンボを採りに行ったでしょう。
角田
夏休みには北野神社とそれから岡本さんの横の道を山の方へ上がりまして、昆虫採集とかセミ取りで1日中暮らしてました。さっき人見さんが大きな異人館には入れてもらえなかった言いましたけど、私は屋敷内にもぐり込みまして、そのうちの1つの記憶として菊地さんの大きなお宅に、私の友人に菊地さんの親戚がおりまして、彼とあの庭の中で池の鯉をご飯粒で釣ったり、それからこの辺に空き地があったんですけどね…。
豊田
ここが風見鶏ですから、この上でしょう。
角田
この辺に空き地がありまして、私が小学校の時なんかは野球、サッカー、戦争ごっこやったりして遊び回ってたんですけど、この空き地の下に大きな異人館がありまして、野球のボールをそこへ落としますと拾いに行きよったんです。その石垣に油がベトベトに塗ってありまして、知らずに入って洋服汚されて、家へ帰って大分怒られました。
今のね、公園はベアさん宅の跡にできましたね。
角田
それから、今の東公園の前も畑というか大分広い空き地がありまして、ここにも天神さんの広場があるんです。それでいろいろゴンタしまして、北野天神の下の狛犬の像ですか、狛犬の横にあった像の上でまたがって遊んでいましたら急に足が痛くなって、ふと見たら大きなムカデでしてね、それにかまれた覚えもあります。あまり良いことはしておりません。
戦前居留地におられた先進国の人の家に招かれてティータイムに御馳走になった記憶もあります。
それから、この北野のあたりはみな終戦後というか、いろいろのお国の人が大分上がって来ましたが、戦前居留地の方におられた先進国の英米仏独、そういうところの人が大分ここらにおられたもので、そこの家に招かれてティータイムに御馳走になった記憶もあります。  私の記憶というのは悪いことした記憶しかありません。20年ほど私もこの町を離れてましたので、その時に一番感じたのは、ふるさとは遠きにありて思うものと今でも覚えてます。方々をウロウロしてましたので、私の記憶はそのぐらいのものです。
豊田
ありがとうございました。それじゃ続いて順番で丹生さん。
丹生
北野・山本地域に住んでいる古い者に話をするようにと指名がございましたので話します。口下手でかつ人前で話すのが苦手で当惑しましたが、やるしかないと言うことで、ちょっと型破りですが自分史のようなことを取りまとめましたので原稿を読みます。その点よろしくお願いいたします。
 私、丹生と申します。大正14年にこの北野町に生まれ、ここに暮らして74年になります。
 我が家の仏壇に置かれている過去帳には、文化・文政時代の先祖の名前が載っておりますが、その頃、神戸は小さな農村であったと思います。以前物置を片づけました時に、今では見かけない旧式の農機具があったことから、先祖は農業をやっておったんじゃないかと思います。私の敷地内に明治30年代に祖父が建てた西洋館がありますが、当時神戸は外国の文明・文化を取り入れどんどん吸収していましたので、祖父も時流に乗って建てたんじゃないかと思っています。ハイカラ好きな人だったようです。
 それから、私が小学校に通っていた時はあまり外で遊びまくる方ではありませんでしたが、家から学校へ行く道筋に洋館がありました。シュウエケ邸、それから毛利さんの屋敷があり、現在も残っているこの2軒については割合よく知っております。毛利家の母屋と別棟をつなぐ渡り廊下がちょっと変わった構造で、そのほかにもかなりの数の西洋館、私らはその時分、異人館という言葉じゃなしに西洋館と言っておりましたが、印象として残っています。小学生の私の目から見ると、ちょっと大きな洋館だというぐらいで、そこに外国人が住んでいるから当然、洋館を建てたという位にしか思ってなかったんですね。
和風と洋風建築が混在して軒を並べている。ごく自然な風景として私らの目に映っていました。
今でこそ観光地、北野・山本地区の核のような形として、異人館が存在しておりますが、もし日本人が洋館に住んでいたら、どんな暮らしをしているかと、面白いことやと思ったし、外国人が日本に住んでいたらどんな住まい方をしているかと興味があるところだったんです。外国人の多い北野・山本地区で、和風と洋風建築が混在して軒を並べている。特に異人館という存在についてあれこれ取り上げて言うこともなく、ごく自然かつ平凡な風景として私らの目に映っていました。
 私が学校への行き帰り、近所の子供たち共々朝夕、買い物の手伝いに通る道、路地の近所には、八百屋さん、うどん屋さん、たばこ屋さん、クリーニング屋さん、雑貨店が店を構えていました。これは当時のどこの住宅地でもよく見かけられたのですが、ごく平凡な町並みというか風景でしたね。だいたい小さい家屋でマンションは当然無かったわけです。長屋風の建物では屋外の共同の水道で洗濯したり米をといだりしてました。私の家の近所に、時代が後になりますが、お好み屋さんが2軒ありました。ちょっとこれ珍しいんですけどね、前と後ろにありました。魚屋さんが「手手かむイワシ」と言いながら売りに来たり、チリンチリンと鐘を鳴らしながら豆腐屋さん、また「竹やー、さお竹」と言って物干し棹を担いで、夏には金魚屋が「金魚えー、金魚」と路地からいろんな物売りの声がよく聞こえて来ました。今ではこのような情景がなくなり少々淋しい感じが致します。
 私の家では正月になると門を開いて幕を張って、玄関に名刺受け台を置いて年賀に訪れる方に玄関で挨拶したり、私らも近所の家へ挨拶に回ったりしていました。正月には天神さんへ初詣に参りました。
 先ほどもお話がありましたように、北野の天神さん西側の谷川では炭酸の匂いがしていて、川底がだいだい色や黄色に染まってました。またそこに赤い小さなカニもいましたし、この谷川に沿ってずうっと北の方、ちょっと北西方向へ行くと二本松茶屋の所へ、20分か30分で登れました。またこの二本松茶屋から修法ケ原とか大龍寺のお寺へ行く道があって、少年時代にはよく行きました。
 それから修法ケ原から東へ回って布引の方へおりてくる道がありました。布引からの帰り道、上から下を見ますと神戸の町が一望できました。上から見ると電車も、バス、トラックも通ってます。三ノ宮駅のプラットホームに人が乗り降りしている風景が見られたんです。そして人間もこんなに小さいのかなというような感じがしました。その時、何かやっぱり町はええな、神戸の町はええなと、ほっと帰ってきたような、何かそういうような感じがしました。
 山から神戸の町を眺めたこの時のことを今思い出しますと、故郷という感じがその時どっかにあったんじゃないかと思うんです。ああここが私たちの住んでいる神戸の町、山の緑も空気も良いし人と自然との共存を身近に受け取れる良い町と、これこそ町づくりの原点と感じ取っていたのかも知れません。
 現在もこの感触は大事じゃないかと、愛着を感じているわけですが、大きく言うとイメージが変わっています。
出征の日には軍隊が菊地さんの屋敷から軍旗を先頭に隊列を組んで粛々と北野坂を下りて行きました。
戦争の中頃には戦地に出征する軍隊が、北野・山本地区に何回か立ち寄りました。その時に菊地さんの所に師団長が泊まり、私らの数軒の家に陸軍兵士や海軍の水兵が泊りました。出発の日には菊地さんの屋敷から軍旗を先頭に隊列を組んで、粛々と北野坂を下りて行きました。当時私の所へ泊まられた何人かの海軍とか陸軍の兵隊さん何人かの写真がここにあります。[写真]
 やがて私も入隊することになり、近所の人たちの軍歌に送られてハンター坂を下りて三ノ宮駅に向かいました。
 戦時中ですが愛国婦人会とか国防婦人会がありまして、もう亡くなられた方も多いんですが、華僑総会の裏道に焼夷弾が落ち、婦人会の人たちがバケツリレー、火たたきで消したという戦時中に活躍された話を、私が軍隊から帰った時に聞きました。
 高知で終戦を迎えて神戸へ帰ってきまして、国鉄の三ノ宮駅のプラットホームから、初めて神戸が戦災を受けて焼跡になっているのを目の当たりにしたわけですが、瓦礫と化した山手方向を見ますと、白い塔の墓標みたいなのが建っており、よく見ると西洋館の煙突だと判りました。後日焼跡に立って台所と思われるあたりには白い食器、お皿類が壊れて散らばっており、それを見ると何か人間の白骨の一部みたいな気がしまして、これらの壊れた物が戦争の空しさを、私たちに訴えているような気が致し胸が詰まる思いをしました。  私どもがこれから「まちづくり」に励むには、自然の美しさを大事にし、人も大切ですが、こういうふうな建物は生きてるものだということを実感したような次第です。ありがとうございました。
豊田
ありがとうございました。
補足しますけど、あの当時の兵隊は、鳥取の兵隊です。
豊田
私も小さい時にね、おじいさんが灘におりまして、そこに兵隊さんが出征するのにね、泊まってましたからね。  ちなみに、皆さんご記憶かもしれませんが昭和12年から13年頃にかけて、神戸港は中国戦線に派遣される日本兵の輸送拠点の1つだったんですが、当時神戸にはこれらの兵士の宿泊場所が少なくて、比較的経済的に余裕があって空き部屋がある各家庭に、兵士の宿泊が割り当てられて、出発前夜までそこに宿泊したという状況だったんですね。  それでは続きまして、弓倉さんですね。実はトアロードについて、いろいろご研究なさって本を書いておられますので、お話を伺いたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
弓倉
ただいまご紹介にあずかりました弓倉でございます。私、北野は非常に新しいのでございまして、もうかれこれ40年前頃に妻の実家の方に入り込んで、そのまま今居ついています。家はちょうどここ三森稲荷神社の東なんです。外から見たら普通の家に見えますけれど、れっきとした異人館でございます。少なくとも明治40年以前ということですから、もう90年ははるか、100年ぐらいたってるんじゃないかと思います。そして、ドイツ人のヒルシュフェルトという人が住んでいて、その人は洋書の輸入をやっていたということです。階段の角が摩耗して丸くなっているので、家の中でも靴を履いて生活していたのではないかと思っております。
 私、トアロードをなぜトアロードと言うかということを研究して小さな本をつくりました。自分の記録用に自家本のつもりでつくったんですが、印刷会社がこれなら売れるからということで店頭に出しました。ほとんど売れてしまいました。薄い本ですけども、実質1年ぐらいかかって資料を調べまして、一応解決しましたんで、自信を持っております。
 このトアロード、結論から申しますとトア、漢字では東亜ですけども、ローマ字ではTOR、これは英語かドイツ語かという説があるんですけど、私としては英語の方のTORをとりました。それを日本風にトアロードというふうに言ってる。
 それから、トアホテルというのが、なぜまたトアという名前を使ったかと言いますと、実はこの場所には後のハンター邸がありました。ハンター邸はもともとトアという名前の館だったんです。それは、J.S.バーデンズという、英国のサムエル・サムエル商会の支店長が住んでいて、その自分の家にトアという名称をつけている。そのトアというのは、イングランドのデヴォンなどの地方にある岩山とか小山で上に石の築造物があるような、そういうものをトアと呼んでいるのが点々とあるんですが、その名前をとってザ・トアという名前を自分の館につけていた。そして、その土地を英仏独の人たちのシンジケート[合同企業体]が買い取って共同でホテルをつくりました。その名前がトアということからしますと、この大邸宅の名前から来ていることがほぼ確実に、いろんな資料から言えると思います。
 そしたら、建物はどうなったかと言いますと、解体してハンターさんが買い受けて、3丁目に移築した。ちなみに息子さんが「範多」と日本名を名乗っておられました。それでここにあったハンター邸を昭和38年前後に王子動物園の方に移築して。それからしばらくして重要文化財の指定を受けたということですから、トアホテルの場所から3丁目へ1回宿替えしてですね、さらにもう一度解体して王子動物園の方に宿替えした。ですから2回解体されている。そして、王子動物園でめでたく建ったんですけれども、このたびの震災でまたガタガタになりまして一部解体したので、3度蘇ったというふうに私は考えております。
トアロードは居留地からこの山手に来る一つの神戸文明開化の都市軸という重要なルートでした。
そのほかトアロードをめぐるお話はいろいろあるんですけれども、要するにトアロードの性格というのは、居留地と居留地に住んでる彼らが良環境な住宅を求めて山手に家を持った、その通勤ルートであった。しかも、この道を中心に西洋の文化がにじみ出してきた。かつて神戸港もいろいろ船が入ってきましたけど今のように直接突堤には泊められなく、沖に停泊していた。これを沖かがりと称するんですが、その沖かがりの船から上がってくるところがメリケン波止場。そこと居留地は直結している。その居留地からこの山手に来る一つの神戸文明開化の都市軸というような重要なルートでなかったかなと、そういう位置づけをすると、実にメリケン波止場から北野町に至る重要な道路です。しかも、それが現役で今も生きてるという点で、大きな意味があるんじゃないかと思うんです。
 トアロードの話はこれぐらいにしまして、やはりこの地域で全国的に有名なものは何かと申しますと、僕はここ移民収容所だと思います。これは例の第1回芥川賞を受賞した石川達三さんの「蒼氓」で一躍クローズアップされましたけども、ブラジル移民の第1弾というのは明治41年ですか、ちょうどトアホテルができた年と偶然一致するんですけども、その時に始まる。ただし、この建物ができたのは、ずっと後の昭和3年でございます。そして、結局これが店じまいになったのは1971年ですから昭和46年ですか、その間が43年くらいあるんですけれども、途中、戦争抜きにしても40年近い歴史を持っております。最近地元の、地元というかブラジルの移住先の人たちの要望で、市も助役が行って約束をするような格好で国にお願いして、全国的な移民の記念館にしようという働きかけをしておりますので、神戸北野・山本地区にもう一つ大きな名所ができるんじゃないかというふうに思っています。去年の暮れに中公新書から「船に見る日本人移民史」というのが出ております。一体どういう船を使ったかというのが主題なんですが、移民史をコンパクトにまとめており、施設の名前が1ダースほど変わっているのが分かります。初めは内務省移民収容所、一番最後は神戸市医師会準看護婦学校になっています。いつ潰されるかと、風前の灯かと思っておりましたけれども、なんとか残るような格好です。古い資料を見ますと、本当にわびしい写真ですけども、ここに移民収容所があって、現在ではこの間がちょっと建て込んでますけども、当時は空き地ですね。いよいよ出発するときに、ここでみんな旅具と言うんですか、荷物の検査をしている。そのバックグラウンドに、大きな松林越しにこの立派なトアホテルが見えるじゃありませんか。あまりにもコントラストですね、一方は豊かな人たちが泊まるホテルと、他方はこれから南米に行かなければならない人たちが持ち物の検査を受けている、そういう写真です。たまたま県の資料の中にあったのを見て、何かこう感無量だったんです。ここはそういう町ではなかったかと思います。
 それから、先ほどありましたバターフィールドの三本松ですね。今朝もちょっと行ってきて調べたんですが、なぜ三本松かということですが、あそこの人も知らないですね。いろいろ市の資料とか読みますと、古い道があったというんですね。それは大阪の方から来る細い道で、三本松があって目印になったと言っておりますね。ちなみに居留地研究会で阿川史朗さんという方が発表されたんですが、長年バターフィールドにおられた人です。バターフィールド・アンド・スワイヤーというのが正式の名称で、今スワイヤーグループというのが残っている。この会社の社宅がそこにあったそうです。その会社の125周年の記録に載っていましたが、社宅として三本松の不動さんごと買収したと。ただし、不動さんに皆んなお参りに来るので、会社の土地として買収したけども、一般の人に開放してます。そうすると、身重の女性が朝な夕な、立派な子供ができるように安産を祈って、ハンドベルと言いますか、御詠歌のチリンチリンでしょうけども、あれを持って拝みに来たと書いてます。その三本松のいわれですが、イギリスの文献を読みますと、ある時代に3人の勇敢な武士がそこに葬られた。その勇敢な武士の記念に3本の松を植えたところが立派に育った。だから、生まれてくる子供もあのような武士になれるようにと、母親たちはチリンチリンと。初めはちょっとやかましかったけども、すぐ慣れたとか書いてました。切り株は今も残ってます、3つとも。ブリキのふたをして。1つはセメントで塗り込んでますけども、ちゃんと残っておりますね。
 それから、先ほどちょっとお話ありまして、私も最近、自治会の機関誌に駄文を載せたんですが、その居留地研究会で発表されたところによりますと、バターフィールド・アンド・スワイヤーの社宅は非常に立派だったそうです。建物が立派だったからクレムリンというあだ名がついていたと、こういうことなんですね。おそらく立派すぎて戦後は維持して行かれなかったんでしょうね。それで戦後直ぐまであったんですけども、今は集合住宅になって、その面影は少しもありません。そこら辺ももしご記憶がある方がおられましたら、お聞きしたいんですけれども。それでクレムリンと言うんですけれども、目の前にホワイトハウスがあったんですね。冷戦時代は終わりましたけれど北野というのは面白いとこで、クレムリンがあったり、ホワイトハウスがあったりですね、探れば探るほど非常に面白いところだというふうに思っております。
豊田
どうもありがとうございました。北さんが資料をお持ちなんでお話しいただきたいと思います。
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