北野・山本地区をまもり、そだてる会

歴史トーク

北野・山本まちなみフェスタ'99
『まちなみ歴史トーク』

主催:北野・山本地区をまもり、そだてる会
開催日:1999年10月30日
開催場所:異人館倶楽部パート2 パラディアム
開会:13時40分 閉会:15時33分

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豊田
この辺に昔、旅館ありましたでしょう、山森さんの近所に。
旅館「青柳」の前身も外国人がおられてね、戦争前にね。御殿風に建てられて、そこも御殿ハウスと言われたんです。外国人がおったんです。このうちの下の次の信号、ここも立派な異人館やったんです。ここ素晴らしい異人館、ここもここも。
豊田
私が昭和31年に来た時に、この北野坂の拡張工事が始まってね、ここだけ1軒残ってましたな。取り残されとるでしょう。
豊田
何かそんな記憶があるんです。ポツンと道路の真ん中でね。あとここは大森さんのお宅でね、東に是則さんのお宅で。山崎さんのお宅で。山崎さんの建物は古く何か元禄時代いう話です。
古いのは山崎さんのとこと光本さん。この近所では光本さんが一番古いんです。
豊田
せっかく残ってたのに、光本さんのところも更地になってしもうたんですね。
うちの近所では、そこが一番古い。
豊田
蔵がありましてね。
昭和35年ぐらい。
豊田
ここにバターフィールド…。何か覚えておられますか、三本松の所ですが。
それね、今、マンションが建っています。あれは戦時中に一時捕虜収容所になってました。
豊田
ああ、ここが…。
はい。それで、うちの隣の大きな大洋パールビル、その貿易経営者も皆、資産凍結されて国へ帰りました、アメリカへ。
豊田
私の記憶では風見鶏の館の南側にフランス人が住んでいたと思いますが。
ベアというて。
豊田
ドイツ人でしたか。以前ここのお嬢ちゃんが「この間あそこのおばちゃんがフランス、パリ行ってね」なんて言って喋っていた記憶があるんですがね。
僕、ベアさんとは心安いんです。
豊田
どうもありがとうございました。そういうことで野さんからバトンタッチで順番に人見さんの昔の話を…。
人見
私は、野さんより若干後輩で昭和2年生まれでございます。しかし、昭和19年から昭和60年までの約40年間神戸から離れておりまして、昭和19年までの中学時代までのことの思い出と、それから40年後に浦島太郎で帰ってきまして、その後の北野の現在の観光地としての状態を見比べて、昔はこうだったんだなという思い出で若干お話したいと思います。
 この地図のここのところが私の家で、ここで生まれたわけでございますけども、中学まではここにおりまして西の諏訪山小学校へ通い、中学は東の葺合の方にありました神戸市立第1中学で、4年間毎日この三本松の前の道を通って学校へ通っておりました。その当時は朝の寒稽古で2月の朝5時半までに学校へ集合というと、この辺は何か恐ろしいような、何もないようなところでした。
 小学校の時も結局、遊んでる場所というのは、この北野町4丁目の西の端の地域ばかりで、あまり東の1、2丁目の方へは行っておりませんので、子供の頃のこの東の辺の思い出はあまりありません。しかしながら、3丁目にある天満神社は、ここへ神社が来ましてから800年以上の歴史を持っているわけでございまして、私ども子供の時代に、特に戦中は毎日早朝天満神社でお祈りした後、ラジオ体操をやって家に帰って学校へ行く生活でした。その当時は、今の宮司さんの先代であったわけでございますけれども、そこに1年間皆勤すればメダルを貰えたりしておりました。それと浄福寺、それから三本松、こういうところが神社仏閣があったところで、私が子供の頃には祖母に連れられて浄福寺に行ったり、この浄福寺さんも北野町3丁目の方からこちらに移られたらしいんですけども、いずれにしても浄福寺というお寺は、もう二百何十年、300年ぐらいの歴史があるお寺でございまして、ここには三本松があって、先ほど野さんがおっしゃいましたけど、もう松は切り倒されちゃいましてなかったんですけども、不動さんがございまして、学校へ行く時に、試験の時にはここでちょっとということで、今日は成績よくなれよとか言いながら、純真な気持ちでここを通ったわけでございます。
 外国人は異人館で生活し、先ほど野さんがおっしゃいましたように、たくさんあったわけですけれども、我々はここで生まれ育って、神戸のまちはすぐ裏が山で、南が海だと。ですから、環境的に山の方でも遊べる、また海で海水浴。しかしながら、北野のこの辺の住民は、真下へ行けば港ですから、泳ぐ時には須磨の海岸かあるいは東の香枦園、甲子園の浜の方へ学校の時から泳ぎに行っていたのです。
 裏へ上がるとちょっと歩けば山に入りますから、先ほどおっしゃいました炭酸水が湧き出るところ、ここから上がって行く道と、それから北野三森稲荷神社がありまして、この横の昔トアホテルのあったところの横道から上がって行くというようなことで。また、子供の時には、この辺の子供たちは皆、トアロード沿いの北野小学校か諏訪山小学校へ行っておりますので、遠足といえば、諏訪山から上って、再度山、修法ケ原にはよく行ったものでございまして、何と言いますか、住宅地として、また人間の生活場所としては環境的に裏はすぐ山であるし、緑に包まれたように静かなまちであった。
 ところが私、40年経って帰ってまいりましたら、すっかり変わっておりまして、いわゆる風見鶏の大ブーム、テレビの放映から一躍観光地となって、最近のように北野・山本は人がいっぱいで、この地元を何とか住宅地と商業地と観光地という形で守っていきたいというふうに思っておりましたので、この会に入らせていただいて、何かお手伝いできればという形でやっております。
 トアホテルが昭和25年ですか、焼けて、その跡が外国倶楽部になっております。昔から、トアホテルの時から南のオリエンタルホテルとトアホテルということで、非常に外人さんあるいは日本人にしましても高級な方々が泊まられるような形で、このホテルの入り口からは無断で入れば怒られる。
 昭和13年の水害の時は、ここがもう大荒れに荒れまして、当時トアホテルの1階のロビーから全部大きな丸太が流れて、トアロードが全部川のようになっちゃって、大木、流木が、だあっと流れてくるところを父兄が迎えに来て、学校から帰ったという記憶があるわけです。
六大都市の神戸のまちの人間と言いながらも、その自然に接することが非常によくできました。
ここ三森稲荷神社の西側の沢は川からの流れの水が若干で、池もあり、もう大雨の時しか水は流れないような状態の沢になっておりますけども、ここでカニやらいろんなそういう昆虫なんかでも、この裏へ行けばすぐにとれるというようなことで。
 また、ハンター邸がございまして、このハンター邸も中には自由には入れなかったですけど、この入り口からこの道を通ってここには大木があってセミをとったり、この辺で生活した子供の時代には自然とともにの生活が家に帰れば出来るというような形で、6大都市の神戸のまちの中の人間と言いながらも、その自然に接することが非常によくできた地形にあったわけでございます。
 そういうことで現在、私どもの記憶にあるのは、この地図は昭和12年ですね、テニスコートがあったのを記憶してるわけですけども。定かではないんですけど、昔、ロシアの領事館か何かが戦前、戦中まではあったんじゃないかと思います。白い建物の異人館で、非常に大きな建物だったんですけど。それはもう今は全然ございませんし、それから私の家を南に下りた所に遠藤邸という非常に大きな敷地の屋敷があったわけですけれども、戦後、ここにいわゆる風俗的な喜ばれないホテルができました。
豊田
料亭「おかがわ」があって。
人見
「おかがわ」があって、その跡にホテルができましたんですね。こちらの風見鶏の館の下の方にもあった。現在では皆完全になくなり、今は普通のマンションになっております。そういうことでございますね。
高橋
箙さんの東はフランス領事か、オランダ領事?今の大阪商船のところはフランス領事が住んでいました。その後オランダ領事とフランス領事の住まいを潰して大阪商船の家族寮になりました。
スイス領事と違いますか。
高橋
スイス領事でしたか。オランダと違ってスイスですか。
スイス領事でした。箙さんの東隣がスイス領事。
高橋
オランダ領事が箙さんと並んでいました。
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