まちづくりフォーラム

まちづくりフォーラム

『北野・山本地区をまもり、そだてる会』設立25周年 記念事業

まちづくりフォーラム
〜外国人がみる、北野・山本の昨日・今日・明日〜

と き:2006年11月30日(木)
ところ:神戸外国倶楽部
主 催:北野・山本地区をまもり、そだてる会

《敬称略》

コーディネータ
浅木 隆子
(北野・山本地区をまもり、そだてる会 会長)
パネリスト
Ferid Kilki (トルコ)
王 柏林 (中国)
Fritz Leonhardt (ドイツ)
Vidhan Chaudhari (インド)
コメンテータ
弓倉 恒男 (元 神戸海洋博物館 館長代理)

まちづくりフォーラムPDFファイル(1.3MB)
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まちづくりフォーラム

司会(山本)
ありがとうございます。いよいよまちづくりフォーラムに入らせていただきますが、今日のフォーラムは「外国人から見た北野・山本の昨日・今日・明日」というテーマを用意させていただきました。コーディネートは、先ほどご挨拶させていただきましたまもり、そだてる会の会長の浅木が勤めさせていただきます。コーディネータやパネリストの皆様、壇上にお上がりいただけますでしょうか。
それでは浅木会長よろしくお願いします。
コーディネータ(浅木)
コーディネータ 浅木 隆子 それでは今からフォーラムを始めさせていただきます。ちょっとフォーラムの趣旨を説明いたしますと、この北野・山本地区は明治初年の開港以来、多くの外国人と日本人が一緒に暮らして、国際色豊かな特色ある居住文化を育ててきました。もともと明治政府がこのあたりを外国人と日本人がまざり合って住んでもよい「雑居地」に指定したところでございます。港に近く、南斜面の温暖な気候が外国人にも愛され、多くの外国人が住むようになってきました。外国人だけでも16カ国この小さな北野・山本地区に住んでいらして、4人に1人が外国人という地域でございます。しかし近年では、かつてはこの町にお住みになっていた外国の人たちが、戦争とか震災とかマンションブームとか、観光地になったから嫌だとかいろんな原因で出ていかれ、外国人の人口が減る傾向が出てきておりまして、このことからこの町が本来持っていましたアイデンティティーが薄れつつありますし、ひいては魅力のない町になってしまうんじゃないかということで危機感を抱いております。
そこで今日は、北野・山本地区にかかわりの深い外国人の方にお集まりいただきまして、「外国人の目から見た北野・山本地区の昨日・今日・明日」というフォーラムを企画させていただきました。そのような趣旨から会場もこの外国人クラブを特にお借りいたしました。ここは、昭和25年に火事で焼けるまではトアホテルという世界有数の、世界でも10指に入ると言われるすごいホテルだったんです。この隣が今はCAPという芸術家の施設になっておりますが、ブラジル移民センターでした。その移民センターからこのトアホテルの着飾った外国人たちを見て、ああ自分たちもブラジルへ行って帰ってきたら、こんな素晴らしいものになれるという希望を抱いて、海を渡った場所です。今日は、そういういろんなことをご存知のパネリストの方をお呼びしております。
私も北野へ来まして、お嫁に来ましてもう42年になります。今は北野町のこういうまちづくりに関わっておりますが、幼稚園のころにはセントメリーというアメリカンスクールがありまして、そこの友達たちが北野に住んでいましたので、よく北野の町へ遊びに来て、外国人の子供たちと一緒に遊んだという記憶がございます。
それでは少し、パネリストの皆様のご紹介をさせていただきます。お隣のKilkiさんですが、Kilkiさんはトルコの方で、1927年名古屋で生まれられて、1935年から神戸の中山手にお住まいになって、1945年に空爆で家が壊れたので、戦後、北野町2丁目のラインの館の上の異人館にお住みになりました。これはハッサム邸といって今神戸市に寄附され、相楽園に移されている建物です。今は御影にお住みでございまして、ずっとイスラム教会のモスクの代表をされています。
その次は、王柏林さん。今日の席順は歳の順で並んでおります。私は省きましてね、すいません。王柏林さんは、神戸で生まれて4代目になられます中国の方。中華同文の顧問をなさっていたり、おじいさまの王敬祥さんは孫文の右腕として、日本に亡命されていた孫文をずっと支えておられた方です。現在孫文の記念館、垂水にございますところと、昨年オープンしました神戸華僑歴史博物館、そこの名誉館長をしていらっしゃいます。昭和5年から王邸と言っていたんですけど、皆様にはグラシアニ邸という方がなじみのある異人館にずっと住んでおられました。
次はLeonhardtさんです。ドイツの方です。神戸に生まれて幼いときは北野町1丁目、北野クラブの上の今マンションのあたりにおうちがあったそうです。サンドという薬品会社に長く勤められまして、ここ神戸クラブの会長を昨年度までしておられました。他に国際医療財団の会長とか神戸ゴルフ倶楽部、六甲山の日本で一番古いゴルフ場の理事とか、海星病院の理事とか神戸レガッタ&アスレチッククラブといって磯上にあります外国人クラブとか、聖ミカエル、マリストブラザースの会長なんかもしてこられました。 その次の方は、Vidhan Chaudhariさん。きょうはお父様がご出席の予定でございましたけれど、ちょっと海外に急に出張なので息子さんのハンサムな方の方がいらしていただきました。まだ27歳ということで、真珠商として3代にわたって神戸にお住まいになっていらっしゃいます。この方のおじいさまが琵琶湖の淡水パールを世界に広めた方で、非常に有名なインドのご一族でいらっしゃいます。そして神戸はとても好きということでアメリカから戻り神戸を選んで働き住んでいらっしゃるという方で、現役のJCのばりばりでいらっしゃるそうです。
きょう最後にまとめを言っていただきますコメンテータとしての弓倉さんなんですけど、弓倉先生は「弓倉(ゆみくら)」と書いておりますけれど「ゆくら」と読まれるそうです。北野町に40年以上お住みで、神戸海洋博物館の館長代理をしておられた方で、外国人居留地研究会の会員でいらっしゃいます。そして著書に「神戸トアロード物語」というトアロードのことを非常に詳しくまとめた本をお出しになっていらっしゃいます。 以上、皆様をちょっとご紹介させていただきました。
それでは順番に、皆さんと北野・山本地区とのかかわり、いきさつなどを5分くらいずつお話しいただきます。じゃあKilkiさんから。
Kilki
Ferid Kilki 今紹介していただきましたKilkiです。私は父の関係で名古屋で生まれて、すぐ学校がなかったものですから神戸に移ってきました。神戸に住んでいたのは中山手通り。加納町寄りの方でございまして、そこからここの下にセントマイクという学校があるんですけど、それはイングリッシュ ミッションスクールで、男性だけの250人くらいの生徒がおりました学校でそこへ通っていました。それで戦争が始まったその日なんですけど、学校に行く途中で何か皆さんが外に出てきてざわめかしくなったんで、どうしたのかなと思って聞いてみたら戦争で米国をやっつけたといって、ああそうですかって私も若かったものですから、余りぴんと来なくて学校へ行きました。学校には、アメリカ、英国それからインドの生徒がたくさんおりまして、インドもその当時は英国の国籍を持っていましたから、えらい心配をしておられました。私は国がトルコでございました。トルコはずっと中立でございましたんですけど、1年以内にアメリカ人、英国人それからインド人とか、だんだんと日本を離れて自分の国へ帰りまして、私のところも父がずっとどうするかということを考えていたんですけど、戦前は日本軍の宣伝が非常に効いていまして、満州事変、シナ事変ずっと勝ちっ放しでございましたので、この戦争も半年か1年で日本が勝つだろう、終わるだろうということで、今さら動く必要はないということでずっと居座ったんでございますね。戦争が始まりまして、もちろん皆さんと同じように一番困ったのは食料関係なんです。食品関係が割り当て制で、私のところは日本に田舎がありませんので、仕送りも何もありませんで。45年の6月でしたか、爆撃で家が焼けましたんですけど、最初は町内会でだれか必ず家に残るということで疎開してはいかんということでおりましたから、私は父と一緒に家におったわけです。庭に2つか3つ焼夷弾が落ちまして、水をかけて消そうとしたんです。そうしたら花火のように散って、非常に危険でございましてやけどをした記憶があります。砂をかぶせるとさっと消えちゃうんですね、焼夷弾は。その間に家の天井から屋根からどんどん燃えさかっていましてこれは危ないなと。それで逃げることにしました。中山手通り、加納町寄りの角っこのところでございましたけど、5〜6軒かもう少しありましたかね、家が疎開してその跡に大きな用水池みたいなものをこしらえていたんです。最初は何のためにこしらえたのかなと思ってたんですけど、それは火事で焼けたら、そこの水を使って消すんだということで。それでその家が焼けて、逃げる途中でその池のそばを通りましたら、たくさんの皆さんが、どんどん熱いもんですからその中へ飛び込んで、戦争中のその当時は皆さんもんぺとそれから綿入れのずきんをかぶって、夏で非常に暑いので、どんどんそのまま水の中へ入っていくわけですね。私も父もどうしようか、中へ入ろうかという相談をしたんですけど、あんまりたくさんおりましたんで、これはもうやめておいた方がいいとずっと逃げてですね、脇浜まで逃げていったんです。それで2時間か3時間かけて帰ってきたんですね。そうしたら何とその池、池というか小さな水溜りの中に80人から90人くらい水死しているんです。そこは2メーターぐらいの深さでですね、入ったのはいいが足が届かない。それでつかみ合いをして、皆亡くなったわけですね。空襲で亡くなったんじゃなく、水死したということは残念で、それでどうするんだということで、もう少し西のところにカトリックの教会がありますけど、あそこは焼けちゃったんですね。床が皆木造で、それから椅子も何も皆木造でできていた。それが焼けた後にコンクリートのベースがたくさんあった。そこへその死体をみんな並べて火葬しました。私は父と二人で皆さんを手伝って運んだ記憶があります。そんなんで、戦争は非常にむごいなというふうに考えております。
北野のあたりは山手の方は焼けていなかったんで、私はそこの知り合いのところへしばらくおりまして、それから教会の家が空きましたんで、そこで2年ほどおりました。しかしその家も大分古くなっていて、消防署から危険だから出ていただきたいということで、実際ちょっとした地震で開いたドアが開かなくなったり、開かなかったドアが開いたりして、100年ぐらいの古い家でございましたので、そこを出まして、自分のところは小さな家をもう1つ持っていましたので、そこへ変わって住んでいました。その家を神戸市に寄附しまして、それが相楽園に今建っておるんですけど、観光地の一つになっております。37年の水害まで北野町に住んでおりましたが、家の中が大体1メートル半ぐらい土砂で埋まって、そこも異人館で古い家でございましたので、ちょうどいい時期だと思って御影の方にかわって、ずっと今御影に住んでおるわけです。大体そんなことで、えらい話が下手ですけど聞き苦しかったと思いますけど失礼します。(拍手)
コーディネータ(浅木)
ありがとうございます。次に王さん、お願いします。
王 柏林 王柏林と申します。神戸で生まれました。兵庫県庁、今は公館になっておりますけどあのすぐ横で生まれたんですが、その後間もなく北野町4丁目116の1番地つまり今のグラシアニ、あの洋館に引っ越してまいりまして二十までそこにおりました。小学校は諏訪山小学校でございます。北野町で育ちましたので、KilkiさんとかあるいはLeonhardtさんとかとは、少年のころから顔見知りでございます。それで少年のころにチャンバラをいたしますと、フェンシング式のチャンバラをしたことを覚えております。小学2年か3年のときでございますか、大水害がございましたですね。この付近のほとんどの水道の水が止まったように思うんです、あるいは濁ったのかもしれませんが。私の住んでいた今のグラシアニの前に水道栓がございました。そこから出る水は布引の水でございまして、非常に澄んだ水が出てきておりましたので、ご近所の方は皆さん水をくみに来られましたですね。それでそのグラシアニの庭に神戸市の水道局の方がテントを張って、サービスをしておりましたんですが、私は家におりましたばあやにお茶を出せといったおかげで、水道局の方から大変かわいがっていただきました。
中学校はちょっとぜんそくがあったものですから、3年ほど遅れましたんですが、中学に3年歳上の者が入ってきたら悪いことを教えるんじゃないかと心配したそうでございますが、歳は3つ上だけども案外すれていないと言われて、変な褒め方をされました。その当時、戦争が終わったばかりでございます。終わったばっかりというよりも、受験したときはまだ戦争中でございましたが、発表があったときにちょうど戦争が終わったんでございます。二中です。
そのころは、やはり日本で住んでおりましたので、爆撃もありましたし、何となく欧米が鬼畜欧米とかいうふうに学校では教わったわけでございますから、日本の学生さんとも心情的にはあんまり違和感がなかったと。むしろ戦後、違和感が生まれたというぐらいに思っております。
実は、中学もぜんそくで休んだり行ったりで、合計5年遅れましたんです。これは今まで言ったことがないんでございますが、5年おくれますと、もう大分大人になるわけですね。それで中学校を卒業して高等学校へ行くとなると、またこれもちょっと具合が悪いなということで、どう言ったらいいんでしょうかね、オリンピックでいう高等技術を使ったんです。まず代表団が、当時まだ大使館ではございませんで、中国代表団が東京にありまして、その団長と非常に親しかったものですから頼んだんですね。実を言いますと、私は中華同文学校の中学3年を卒業してすぐに関西学院大学の聴講生に入ったんだすね、当時、入学資格といえば高等学校の卒業生ということよりも、合計12年間の教育を受けた者という規定がありましたんで、ちょっと詭弁でございますけれども、間違いなく12年間行っておるので資格はありますと。東京の大使館の推薦状もあります。ということで、しようがないなということになりまして、入学は特別生です。それでとにもかくにも大学は卒業したと。
当時は今のように大学生がそうごろごろしていなかった時代でして、いわゆる学士さんです。就職はBank of China。大阪の御堂筋にございます中国銀行大阪支店。これは戦前からある中国の代表的な国家の銀行で、その大阪支店に入りました。入ってみますと20名ばかりの人数ですが、外国為替をやっているのは副支店長の高田さんという東亜同文書院を出た方1人が、ドキュメントのチェックをされておりました。はい。そういうことで私は銀行屋になってしまいました。タイのバンコク銀行の大阪支店は実は私がつくったんです。タイにも何遍も行きました。それから私実はこちらのKilkiさん、それからLeonhardtさん、こちらのお二人は私が小さいときに北野町で遊んでおったときには、しょっちゅう顔をみておりましたので、きょうはほっといたしました。大変つまらんお話でございましたけれども、これをもって私の話にいたします。ありがとうございました。(拍手)
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